ルアンプラバンについて

ようこそ、古都ルアンパバーンへ

ルアンパバーンの地が最初に開拓されたのは、1200年以上も昔。メコン川とカーン川、ふたつの合流点に造られた町は、14世紀にラオスの前身であるランサーン王国の首都として栄えました。

町は長い歴史の中で「ムアン・スア」「シェンドーン・シェントーン」とその名を変え、現在は旧王宮の庭園に納められている仏像(パバーン仏)の名に何ちなんで、「ルアンパバーン」と呼ばれています。ルアンパバーンはラオス語で、「黄金のパバーン仏」を意味しています。

旧市街には、保全と修復活動によって復元された歴史的な建造物や寺院、フランス保護領時代のコロニアル様式の建物が立ち並び、東洋と西洋が調和した美しい町並みを作り出しています。1995年にはその歴史的な価値から、町全体がユネスコ世界遺産に登録されました。 (詳細はこちら 

遺産とともに生きる人々

町のシンボルになっているワット・シェントーンをはじめ、ワット・マイ、ワット・ヴィスンナラートなど、小さな町には約40もの寺院が点在しています。寺院はルアンパバーンで暮らす人々にとって、日々足を運ぶ市場(地元の山から採れたキノコや、地元の人が作るラオス料理や、手作りの織物などが販売されている市場)と同じように、生活には欠かせない重要な存在になっています。

町の外に目を向ければ、川と山に囲まれた大自然が広がり、ゆったりとした時間が流れています。また世界中からやってくる人で賑わう町は、政治、教育、貿易の主要な拠点として、北部ラオスの窓口にもなっています。

歴史と伝統によって築きあげられた古都ルアンパバーンでは、現在でも、空港に降りたつジェト機を横目に、昔と変わらずにスローボートがメコン川を行きかい、漁師は川で網をはっています。

「満足度の高い観光地ランキング」1位

日本ではまだまだ未知の国・ラオスですが、ルアンパバーンは近年欧米の旅行者から人気をあつめ、イギリスの旅行雑誌『Wonderlust』の「満足度の高い観光地ランキング」で、2006年から3年連続、合計7年間にわたって1位を獲得しています。また夜間でも徒歩で出歩けるなど治安がいい町としても有名です。

日本からの直行便は就航していませんが、ハノイ、バンコク、クアラルンプールを経由すれば乗換1回、飛行時間7~8時間で訪れることが可能。LCCの航空会社が就航しているので、気軽に足を運ぶことができます。

人口と地理:

ルアンパバーン県はラオス北部8県のうちのひとつで、首都ビエンチャンからメコン川を約400キロ北上した場所に位置しています。北部はウドムサイ県、ポンサリー県、フアパン県に、南部は首都ビエンチャン、サイニャブリ県に、東部はシェンクワン県に接しています。

ルアンパバーン県の人口はわずか40万人超、その中で8つの異なる民族が共生しています。その中で一番多いのがカム族で約44%を占め、日本でも馴染みのあるモン族は16%、人口の39%を占める低地ラオ族の多くは、ルアンパバーンの町中で生活しています。

歴史:

考古学の研究によると、少なくとも紀元前8000年にはルアンパバーンで人が暮らし始めたとされています。この地に侵攻し地域を統一したファーグム王によって、ラオス最初のランサーン王国が建てられたのが14世紀。その際に、現在の町の名前の由来となったパバーン仏がクメール王朝(現カンボジア)から贈られました。

町は1357年まではムアン・スアと呼ばれ、その後ルアンパバーンに改称されるまで、シェンドーン・シェントーンと地元の人々から呼ばれてきました。以後、1560年にセタティラート王がビエンチャンに遷都するまでは、ルアンパバーンはランサーン王国の首都として栄えました。

ビエンチャン遷都後は仏教信仰の中心地として機能した町。17世紀のスリニャヴォンサー王の時代には、西洋からの使者がやってきたという記録が残されています。1694年に王が崩御すると、ランサーン王国はビエンチャン、チャンパーサック、ルアンパバーンの3つに分裂。19世紀末までは黒旗を掲げた山賊による略奪が横行し、多くの仏像や寺院、歴史的な建造物が破壊されてしまいました。

最後の王となるシーサワンウォン王の時代(1904~1959年)になると、破壊された文化遺産の修復プロジェクトが行われ、多くの仏像や寺院当が美しく蘇えりました。しかしその一方で、現在でも町には破壊されたままのものが残されています。現在のルアンパバーンの風景が作られたのは1800年代から。ラオ族とタイルー族、隣国のミャンマーと中国の建築様式の建物に加えて、フレンチ様式の建物が現れはじめました。

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